8月に思い立って教会に行ってみた。自分に嫌気がさしたのと、迷える子羊って言葉が何となくわかるような気がしたから。最初に行った教会では、黙示録の、天国の広さがどのくらいだとか天国の壁にはどんな宝石がちりばめてあるか、というところに関する説教を聞いた。つまり、天国は実在する、って話だったようだ。僕にとってはどうでもいい話だった。次の週は家族と一緒に近所の教会に行った。お金に関する説教だった。とてもいい話だった。なのでその教会には3回くらい行ったし、これからも行くつもり。日曜の礼拝のほかに、牧師さんとの個別面談も3回受けた。キリスト教についての疑問を牧師さんは嫌な顔一つせずに聞いてくれ、誠実に答えてくれた。でも僕がどうしてもわからないのは、なぜキリスト教の人たちはあんなに聖書に書いてあることを丸呑みできるのかということ。神を信じられれば、すべてうけいれられるのかな。僕は順序が逆なんだろう。聖書に書いてあることに納得してから神を信じるっていうものではないんだろう。信仰を持つに至った人の書いたものを読むと、これは理屈じゃないようで、あるとき神様がすっと入ってくるという感じなんだろうな。僕もそういう風になれたらいいだろうなと思う。それを目指して教会に通ってみようと思う。わからないことはいっぱいある。人間が罪深いものであるということはこの歳になるとよくわかる。しかし、神の一人子キリストが我々の罪を購うために死んだ、そして復活した、というところがどうしてもわからない。オレとキリストといったい何の関係があるんだ?あと、なぜキリストだけがそんなに特別なの?他にも偉大な人はたくさんいるじゃないか。お釈迦様は無視?キリスト教の人たちは、トップダウン的な思考をするのである。聖書にお釈迦様は出てこないから考えなくてもいい、ってことなのか。こういうの、オレには馴染めそうにない。更に、どうも本物のキリスト教信者になるためには、創世記に書いてあることもすべて信じなくてはならないらしい。それはオレにとっては絶望的だ。最初の人間はアダムなんだって。そんなこと信じられるわけないじゃない。